HappyBrthday!!




 カーテンの隙間から、柔らかな光が零れる。夏に向かう途中の、優しい日差し。
 それに負けないくらい、優しく、甘い声が、まだ眠りについていた帝人にかけられた。
「帝人くん、起きて」
「・・・・。」
 耳元で囁かれる甘いテノール。恐らく、多くの人間がその美しい声に、頬を染めるであろう。長いこと聞いている帝人も、例外ではない。しかし、今の帝人は、僅かに眉間に皺を寄せて、声から逃げるように布団を被り直した。
 声の主、折原臨也は「つれないな」と僅かに苦笑する。
「ほーら、いいの?今日は出かけるんでしょ?帝人くん」
 無理に布団を剥がすと、ぐずるように身体を丸めた。まるで猫のような仕草に、臨也は堪らなくなって、帝人にキスをしようとしたが、恐らく、更に機嫌を損ねてしまうだろう。そう思い直して、我慢するように唇を指で撫でるだけに留めた。
「帝人くん?」
「・・・ん、」
 ようやく、彼の瞼が少し持ち上がり、ブルーブラックの瞳が覗く。臨也は、帝人のぼんやりとした表情が特に好きだった。その童顔に似合わず(と言っては怒られるが)、いつもその強い意志を瞳に映していて、あまり隙を見せない。それは臨也にも同じだ。恋人という間柄になっても、中々だらしない姿を見せようとしなかった。もしかしたら、そんな姿を見せて呆れられてしまうなんて、可愛らしい見当違いをしているのかもしれない。
だから、自分だけが見られるこの表情が、臨也は好きだった。つまりは、独占欲と優越感だ。
堪能したいのは山々だったが、ここで起こさなければ、この後、きっと帝人が不機嫌になってしまうだろうと思い、名残惜しいのを我慢しながら、帝人の肩を揺すった。
「帝人くん、起きて。俺を連れてってくれるんでしょ?」
「・・・・。」
 ぼんやりしていたブルーブラックが、段々とはっきりしてきて、動揺の光を浮かべた。帝人ががばりと勢い良く身体を起こす。
「おはよう」
「おはようございます、って、今何時ですか!?」
「ん、十二時過ぎ」
「ああっ!もう!何でもっと早く起こしてくれなかったんですか!」
 帝人は叫ぶなり、洗面所へと走っていった。恐らく外出の準備をするのだろう。すべて終わっている臨也は、スキップでもしそうな足取りで帝人を追いかけた。
「起こしたけど、帝人くんが起きてくれなかったんだよ。お寝坊さんだねぇ」
「っ!誰の!誰の所為で起きられなかったと思ってるんですか!」
 歯ブラシを片手に、ギッと睨み付けてくる帝人に、臨也は実に嬉しそうに笑った。
「俺だね」
「少しは反省して下さい!僕、昨日言いましたよね?今日、出かけるって!」
 本日は五月三日。ゴールデンウィークも中盤を過ぎた火曜日である。実は昨日、帝人が臨也の誕生日に併せて旅行に行こうと言い出したのだ。
 二ヶ月程前から帝人には三日と四日を空けて置くようにとは言われていた。しかし、その詳しい内容は昨日まで一切教えてくれなかった。臨也の情報力をすれば、帝人が何をしようとしているかなんて、すぐにわかる。けれど、臨也はそれをしなかった。可愛い恋人の気持ちを酌みたかった。
 基本、知らないことを嫌う臨也だが、自分に関係があるだろうことを、無理に暴かない程に帝人を溺愛していた。
 彼が高校二年の時に恋仲となった二人の関係は、最初は不安定ですぐにでも壊れてしまいそうだった。臨也の遊びで付き合うことになったからだ。しかし、臨也が本気で帝人を好いていることを認め、帝人もそれを受け入れた時から、彼らはセルティ、新羅のカップルと肩を並べそうな程、睦みあっていた。
 帝人が高校を卒業すると同時に、臨也は攫うように自分の住まいへと帝人を連れ込んだ。「俺はとっても我慢したんだから、君はそれに応えるべき」とジャイアニズム丸出しの言葉を、帝人は怒る振りを見せながらも、内心、とても嬉しかった。
 目まぐるしい忙しさだった大学一年を過ぎ、今年は余裕があった。長すぎる大学の春休み中に考えたことは、臨也の誕生日だ。いつも、帝人は臨也に大げさすぎる程祝われている。「帝人が自分以外の人間からおめでとうと言われている姿を見たくない」なんて心の狭いことを堂々言ってみせる臨也は、誕生日当日、帝人を池袋から連れ出した。それは、遠い県だったり、海外だったりもした。帝人は、それに呆れる振りをしながらも、嬉しかった。だから、携帯電話に堪ったメールは、悪いと思いつつも、帰宅までは開くことはなかった。
 いつも十分過ぎる程に祝ってくれているから、帝人も何かを返したかった。だから、臨也のように豪勢なことはできないが、臨也を旅行に誘うことにしたのだ。
 それを、昨晩、夕食の時に話したというのに。
「聴いたよ。だから俺は嬉しすぎて君を抱いちゃったんじゃない」
 嬉しそうに笑う臨也に、思わず頬を染めてしまう。
「っ、か、加減くらいして下さいよ!」
「したよ。ズッコンバッコンじゃなくてズコズコぐらでしょ」
「そっ、そういう表現しないで頂けませんか!」
 臨也が人の心で遊ぶ最低の男だということはわかっている。だが、その綺麗な顔で下品なことはあまり言わないで欲しい。彼の本質を知りながらも、少し夢見るところが帝人にはあった。
「そ、それに、長いんですよ・・・っ!」
 確かに、昨晩の臨也は優しかった。しかし、あまりにも帝人の『身体』に気を使いすぎた優しいそれに、帝人の精神の方が疲弊した。痺れを切らして「早くしてくれ」と言っても「まだ十分じゃない」と、突っぱねられ、じっくりと身体を開かされた。自分だって身体が熱いはずなのに。実際、どんなに帝人が煽っても昨晩の臨也は揺るがなかった。それはもう嫌がらせかと疑う程だ。
 それを思い出し、帝人は少し不貞腐れたように視線を外した。
「・・・僕のこと、本当は嫌いなんじゃないかって思いました」
「あ、そう?じゃあ、悪いけど旅行は止めて、俺プランベッドツアーで嫌って程愛を教えてあげようか」
「疑ってすみませんでした」
 笑顔ではあるが、柘榴色の目があまりにも真剣だったので、帝人は間髪与えず謝罪をした。臨也は「そう?その気になったらいつでも言ってね」と薄ら寒い笑顔でのたまった。
 折角自分が考えた予定が狂い掛けている。でも、それすら簡単に許してしまう自分は、やはり、相当、彼に惚れているのだろうなと考えながら、帝人は口を漱いだ。


***


「では、行きましょうか」
「おっけー」
 助手席にいる臨也のどこか弾んだ声に、帝人の頬が緩む。
 帝人は春に車の免許を取得したばかりだった。交通の便がいい都内では、学生にはあまり必要がないが、長い春休みと、少し貯まった貯金を利用して通っていたのだ。
 臨也と暮らしていることで、今までの生活費が浮いているのだ。まったく足しにならないだろうが、受け取って欲しいと臨也には何度も言っているのだが、「君にとって俺はそんなに甲斐性がない訳」と冷たい目を向けられるのだ。こっそり置いても戻ってくる、口座に振り込んでも戻ってくる、ではせめてと食費等を自分の財布から出してもかなり多めに振り込まれる。一度はこれが原因で相当険悪な事態に陥ったが、帝人はその内馬鹿らしくなり、臨也の好きなようにさせることにしたのだ。とりあえず彼の仕事の手伝いをして少しでも返したいと思い、申し出たが、そこでも彼は勝手に
帝人に給料を与えてくるものだから、帝人の貯金は貯まる一方だった。  開き直った帝人は、今後を考えて自分を高める為に使うことにした。そうすれば、少しでも臨也の役に立つ幅が広がるはずだ。それの一番最初が車の免許だったのである。合格した時に臨也が「今年の誕生日は車にしようか?」なんて訊いて来たのでとんでもないと否定し、勝手に買ってきても絶対に受け取らないと断言し、何とか思い留まらせた。帝人は物が欲しくて臨也の傍にいるのではないと、口酸っぱく言っているが、嬉しそうに頷くので、どこまでちゃんと聞いているのか不安なところだ。
 と言う訳で、帝人たちが乗っている車はレンタカーである。昨晩借りて置いたのだ。

「割と落ち着いてるね」
 信号待ちで臨也が話しかけてきた。
「少し門田さんたちに運転させて貰ったりしてたんで」
 免許を取ったと話したら、「運転してみろ」と彼らに連れ出されたことが多々あった。彼らの気遣いをありがたく受け取り、横浜まで行ってみたりもしたので、路上にも随分慣れていた。それに、隣で狩沢が「ショタの運転姿萌え!」と騒いでいたのを絶えてのドライブだった為、集中力も無理矢理身についた。二十前の男にショタとはなんだと最初は散漫になっていたが、人間とは慣れる動物で、最近は大抵のことは言われても適当にあしらうことが出来るようになった。それの対価として、知りたくない単語も知識として帝人の頭にしっかり入ってしまったのではあるが。
「・・・やっぱ車買おうか」
 むす、と、少し拗ねたような臨也に苦笑する。
「レンタルでいいじゃないですか。臨也さんだってあまり乗らないでしょう?」
「君と一緒ならいつでも出すよ。君が助手席でも運転席でも隣にいるなら欲する理由としては十分だよ」
 そう言われて帝人だって悪い気はしない。帝人だって臨也と出かけることは楽しみだ。けれど、本当にあまり使わないのだ。臨也が運転している姿は二回ほどしか見たことがないし、自分だってこういった休みでなければ出さない。
「・・・もうちょっと考えましょうね」
 断固拒否から少し軟化した帝人の態度に、臨也が後もう少しだと考えたかどうかは、彼のみぞ知るところだった。


 無事高速に乗って、車は順調に走行していた。首都高を抜ければ渋滞もすっかりなくなった。大型連休も半ばなので、下りはスムーズだった。真ん中の車線を無理なく走ること二時間程、隣で静かにしていた臨也が「そろそろ休憩しようか」と言ったので、パーキングエリアに入った。駐車場もそこそこで、停める所はすぐに見つけられた。
「んー、」
 車を降りて伸びをすると、割と自分が疲れていることに気が付いた。軽くストレッチをしたりしていると、少し陽が傾き始めた空が視界に入る。
(まあそうだよね。出てきたの昼過ぎだし)
「帝人くん、中入ってちょっと何か食べようよ」
「あ、はい」
 おいでと手を招く臨也の後を着いて行った。お土産が並ぶ売店を通り過ぎ、簡易な食堂へと入る。
「ここのお勧めはラーメンだって。帝人くんは何にする?」
 食券販売機にお札を入れながら問う臨也に、帝人が首を振る。
「だめです。僕が出すんです」
「えー、いいじゃん、これくらい。もう入れちゃったし。ほら、何にするの?」
「・・・じゃあ、お勧めで」
「りょーかい」
 若干不貞腐れた表情の帝人に、臨也が「俺、コーヒー飲みたいなあ」とご機嫌をとってみた。帝人は案の定、「わかりました」と言って隣接するコーヒーショップへと向かう。
「あ、帝人くーん、缶でいいからー」
「はいー」
 返事はするものの、彼の足取りは完全にコーヒーショップだった。臨也は苦笑しながら自分と帝人の食券をカウンターに出した。

(やっぱモテるんだなぁ)
 コーヒーを手に戻って来た帝人は、カウンターで待っている臨也が女の子に話しかけられているのを見てしみじみと思った。数分目を離しただけでこれだ。
 池袋では彼の悪評が広まっている為、あまり程は見かけないが、それでも、彼を逆ナンする女性はいた。
 確かに、綺麗な顔立ちに、すらりとした体躯で、口を開けば美声。極めつけはその笑顔。猫を被っている時の臨也の笑みは好青年以外の何者でもない。当然、彼に魅了される女性は後を絶たなかった。
 帝人は彼が女性と話している姿を見かける度に仄暗い気持ちになった。彼がいつもからかうように自分は童顔である。それに、臨也のように格好良くもない、力もお金もない。ただの学生だ。どうして彼が自分を選んだのか、自信がなかった。あるとすれば自分が仕切っているカラーギャングの『ダラーズ』くらいだろうが、自由奔放な彼をずっと引き止めていられる程の力が果たしてあるだろうか。
(あー、折角旅行に来てるのに、)
 気分が落ちかけた時、「帝人くん」と声が掛けられた。顔を上げると、臨也が嬉しそうに笑いながら両手にラーメンの乗ったトレイを持っていた。
「お待たせ。座ろ?」
「あ、はい」
 彼の肩越しに後ろを見れば、先程の女性たちが不満そうにこちらを見ていた。その鋭い視線に、帝人もタジタジである。
「・・・帝人くんはホント女に弱いよね」
「は?」
「免疫なくて初々しい帝人くん、可愛くて好きだよ」
「ちょっ、」
「だから、心配しなくていいよ」
 臨也の言葉に、ブルーブラックの目が大きく見開かれる。どういう意味なのか、わからない。
「あの?」
「早く食べないと伸びちゃうよ」
「は、はい」
 促されて席に座ると、臨也は「頂きます」とラーメンに割り箸を入れた。
「あ、そう、さっきのだけど、帝人くんが万が一女好きになっちゃたら、トラウマ作って二度と見向き出来ないようにしてあげるから」
「はっ!?」
 掴んでいた麺が箸を離れ、ぽちゃんと音を立ててどんぶりに戻る。臨也の深紅の眼は、色を纏って細められていた。今にも取って食われそうな雰囲気に、帝人は身を固くする。
「あ、あの、なんでそんな話に、」
「俺はね、君が不安そうな顔するの、割と好きなんだよ。だから、女に声掛けられても無碍にしない」
 ラーメンを啜りながらそんなことを言うイケメンに、帝人は目元をヒクつかせる。
「君が勝手に不安になって、自己嫌悪に陥ってる姿は本当に可愛いと思うよ。その場でキスしてつっこんでやりたいくらい」
「全然嬉しくないです。やったら刺します」
「わかってるよ。君は本当に俺の愛を理解してないね。だから、こうやって我慢してるんじゃないか」
『こうやって』と言われて、まさか今も?と、露骨に嫌そうな顔をした帝人に、臨也はこれでもかという程の爽やかな笑みを浮かべた。
「期待に応えてあげてもいいんだよ?」
「すみません、結構です」
「そう?」
 気が変わったら言って、と、臨也は再びラーメンを啜った。綺麗な顔で綺麗笑って、物騒な言葉を吐く。この男は実は別のことをしゃべっていて、自分の耳がおかしくて変に聞こえるのではないかと疑う程、臨也は優しげに笑っていた。周りの人間は、彼がこんな底辺な会話をしているとは夢にも思っていないだろう。
 胡散臭げに観察していると、バチッと柘榴色とかち合って、思わず肩が跳ねる。
「・・・まあ、今日は、俺の為に来てくれてるからね」
「はぁ?」
「わからない?手札を見せてあげようって俺の善意」
「え、いざ、」
「早く食べなよ。それ、伸びてる」
「あ、はい」
 少しきつめに言われて帝人は、麺を慌てて啜った。臨也の言う通り、麺は伸びてしまってはいるが、美味しいスープに顔が綻ぶ。
 それから、ちらりと臨也を視線だけで窺うと、面白くなさそうな表情をしていた。失敗したかな、と、眉尻を落としたが、臨也の耳が薄っすら赤いのに気が付いて、目を瞬いた。再び目が合って固まる。
「何」
「い、え、何でも」
 それ以上は会話せず、互いの間には面を啜る音だけが響いた。けれど、帝人は気まずさも何も感じなかった。彼が急に素っ気なくなった理由がわかって、帝人は思わず頬が緩んだが、何とか笑いを噛み締めて堪えた。ばれたら臨也の機嫌が本当に降下してしまうに違いない。
(いっつも、呆れるくらい恥ずかしいこと言ってる癖に、)
 臨也さんのスイッチはわからないなぁ、と、けれど、まんざらでもなさそうな雰囲気で帝人は伸びきったラーメンを再び口に運んだのであった。


***


「このままチェックインしちゃいましょうか」
 高速道路を降りた頃には、すっかり夕方になってしまい、帝人は臨也にそう提案した。本来なら、テーマパークに行く予定であったが、寝坊のお陰ですっかり狂ってしまった。
 寝起きはついつい臨也に責任転嫁をしてしまったが、本はと言えば、自分の体力のなさにも原因がある。素直に謝れば、「別に構わないよ」とあっさりと臨也は許した。いつもならこれでもかとネタにしてネチネチと帝人をいびって何かしらいやらしい要求してくるはずなのに。自分のプランではそこまで期待されずとも仕方ないかと肩を落としたが、それを察したらしい臨也が「そうじゃない」と目を逸らしながら否定した。
「どうでもいいっていう意味じゃないから。嬉しすぎて抱き潰しちゃったことは、まあ、少しは悪いと思ってるよ。でも褒めて欲しいよね。帝人くんが散々おねだりして来るのを懸命に我慢したんだよ?運転できるってだけでも俺に感謝して欲しいね」
「そ、それはどうも」
 帝人は、何故か恩着せがましい臨也に、多少引きながらホテルへの道のりを走らせた。すっかり緑に囲まれた風景は、地元とは異なった田舎っぷりだ。田園風景が広がる実家は平坦な土地である。高速でも少し感動したが、すぐ傍に山が見えるというのは中々新鮮な風景だった。道を覆うように茂っている木々、その新緑から零れる光に、なんとも心が洗われるようだ。
「なんだか、本当に旅行に来たって感じですね」
「そうだね。そういえば、もう少し先の山に雪が積もっていたのが見えただろう?」
「えっ、見てませんでした」
「帰りに教えてあげるよ。ここら辺はね、スキー場も有名なんだよ」
「そうなんですか。凄いですね。五月なのにまだ雪があるなんて」
「冬はウインタースポーツしに来ようか」
「いいですね。僕、やったことないんです」
「本当?じゃあ覚悟しておきなよ。次の日、すっごいことになるから」
 クスクス笑う臨也に、「凄いこと?」と首を傾げる。
「筋肉痛が酷いってこと」
「ハードなんですね」
「まあ普段と使う筋肉が違うからね。ま、安心して。俺が手取り足取り教えてあげるから」
 そう言う臨也の顔は、とてもスポーツを教えるような雰囲気ではなく、意地の悪いそれだった為、帝人は「お手柔らかにお願いしますからね」と念を押したのであった。

「着きましたよ」
 ホテルのロータリーで玄関口に車を止めると、ボーイが迎えてくれて荷物を運び出した。キーを渡してフロントへと向かう。
 相変わらず上機嫌らしい臨也は、余計な愛想を振り撒きながら、軽い足取りで帝人の後ろをついて歩いた。なんだか、いつもと逆の立ち位置に帝人は少し不思議な気持ちになる。
 説明を聴いて案内された部屋は、二人部屋にしては広い和室で、窓の外には目の前の山とホテルのすぐ傍を流れる川が見えた。
「綺麗なところだね」
 素直に褒めてもらい、帝人はホッとしたように笑う。
 今回は帝人にとってはだいぶ奮発したのだ。ネットでの予約ではなく、旅行代理店に足を運んで、評判が最上級のホテルを探して貰った。好印象だったことに、胸を撫で下ろした。
「臨也さん、外、凄いですよ」
 最上階の部屋であるから、眺めはお墨付きである。「どれどれ」と臨也も素直に近寄ってくる。
「ああ、ほら、帝人くん、あっちの方に雪見えるよ」
「あっ、本当だ!」
 横の方を覗き込むように窓に顔を寄せると、臨也が後ろから帝人を閉じ込めるように手を突いた。背中に臨也の体温と、耳元に息遣いを感じ、身体が強張る。
「ちょっ、」
「どうしたの?耳、赤いよ。照れてる?」
「ひっ、」
 ふぅっと息を吹きかけられ、大げさに身体がビクリと跳ねた。
「帝人くんは慣れないねぇ。これ以上のことなんて、数え切れないくらいしてるのにね」
「い、いい加減にして下さいっ!怒りますよ!」
「それは怖い。じゃあ、大人しくするとしようか」
 ぺろっと舌を出して臨也は帝人から離れた。突っぱねたものの、帝人は名残惜しげに臨也を目で追ってしまった。そんな自分に気がついて、慌てて頭を振る。
「そうだ。お風呂、入っちゃおうよ」
「ふえっ!?」
「部屋に外が眺められる風呂あるんだろ?ねえ見ようよ」
「ちょっ、い、臨也さん!」
 よたよたと先程仲居さんに案内されたように、風呂へ続くドアを開くと、二面がガラス張りの浴室だった。温泉らしく、大きな檜風呂が置いてあった。独特な湯の香りに、臨也の脇から覗き込んでいた帝人は「わぁ、」と小さく声を上げた。
「いいね。入ろっか、帝人くん」
「へっ、一緒にですか?」
 顔をぎょっとさせた帝人に、臨也が苦笑する。
「普通、温泉ってのは皆で入るだろ?そんなに意識しなくても何もしないって」
「っ!」
 臨也の言葉に羞恥で顔を真っ赤にさせる。「あう・・・」と羞恥で小さくなった。
「まあ、帝人くんが望むならお風呂場で、」
「結構です!」
 臨也が最後まで言い切る前に、帝人は足取りも荒く「タオルと浴衣準備してきます!」と戻って行った。その背中を、臨也がくつくつと喉の奥で笑いながら見送る。
「耳まで真っ赤にさせちゃって」
 可愛いなあとにやにやと帝人が戻ってくるのを待っていると、「先に入ってて下さい」と声が聴こえて来た。本当は着替える帝人を観察したいと思っていたのだが、まあ、それはいつでもできる。警戒されて折角の温泉をふいにさせるのも勿体無い。臨也は「わかったよ」と心なしかトーンも高めに応え、上着を脱ぎ始めたのであった。


***


「お、美味そうだね」
 風呂に入っている間に料理を運んで貰い、ほかほかと湯気を纏わせた臨也は、その白い頬を上気させながら、料理の並べられたテーブルを眺めた。
「臨也さん、駄目ですよ、そんな濡れたままじゃ」
 一旦窓際の椅子に座るようにと促すと、臨也は素直に帝人に従った。帝人がドライヤーで温風を送りながら櫛で臨也の髪をさらさらと掬う。実は、これは帝人の仕事である。臨也の風呂上りに帝人が起きていれば、こうやって臨也の髪を乾かすのが習慣であった。
 臨也が帝人に頼んだ訳ではなく、帝人が濡れたままで過ごす臨也を見かねて、髪を乾かすことを申し出たのだ。嫌がるかと思ったが、寧ろ嬉しそうに承諾した臨也に、首を傾げたものの、帝人はその習慣を続けていた。それこそが、臨也の目論みだったことに、帝人は気づいていない。臨也としては気づかなくてもいいし、気づいてもいい。帝人が臨也の髪を触るが好きであることを、臨也は知っている。臨也も帝人の手が触れることを喜んでいる。正に利害一致の関係だ。
(まあ、帝人くん以外は絶対に許さないけどね)
 どこぞのスナイパーではないが、自分の背後に立たれて、しかも見下ろされるなんで冗談じゃない。
「はい、できました」
 どうぞ、と肩を叩くと、臨也が振り返って見上げてきた。普段見慣れないアングルの柘榴色の瞳に、帝人の頬が更に上気する。
「帝人くんも乾かしなよ。俺がやってあげる」
「え?大丈夫ですよ」
「何?俺じゃ不満?悪戯なんかしないよ?」
「・・・そう言われると、返って不安ですけどね」
 そう言いながらも、帝人は「じゃあお願いします」と頷いた。臨也は「よろしい」と何故か偉そうに口端を上げた。
「はい、座って座って」
 肩を触られ、無理矢理座らされる。そんなにしなくても、そのつもりであるのにと、ちらりと思ったが、帝人は素直に背凭れに身を預けた。
「はーい、じゃあ乾かしまーす」
「お願いします」
 帝人の髪は短いので、手櫛で十分だ。温風が当てられて、臨也のしなやかで長い指が髪に触れる。満遍なく温風を当ててから、頭皮をマッサージするように揉む。気持ちが良くて、思わずため息が漏れた。
(臨也さん、本当何しても上手いなあ)
 性格以外は完璧な男である。きっと、自分がどんなにがんばっても、悔しいが彼には追いつけないと思う。いつ飽きられても仕方ないなあと、どこかでいつも怯えている。
「はい、終わり」
「ありがとうございます」
 起き上がろうとしたが、臨也がまだ頭を撫でていた。
「臨也さん?」
「・・・・。」
 後頭部に温もりを感じたと思ったら、ちゅっとリップ音が聴こえて、心臓が跳ねる。
「な、にして、」
「・・・ありがと」
「へ?」
 乾かして貰ったのだから、お礼を言うのは自分の方だ。不思議に思って見上げようとしたが、強い力で頭を押さえられる。
「ちょっ、臨也さん、」
「見ちゃ駄目」
 二十後半がそんな言葉遣いも如何なものかと思ったが、帝人は素直に従った。帝人にその気がないとわかった臨也は力を緩めて、再び帝人の頭を撫ぜた。つけたテレビの音だけが室内に響く。帝人は彼の好きにさせた。臨也が何を考えているかわからないし、自分が何かを話しかけてどうにかなる気もしない。ただ、彼の思う通りにさせるだけだ。それが、自分にできる唯一で精一杯の甘やかしだ。
 しばらくして、気が済んだらしい臨也が、「ご飯食べよっか」と言ってきた。言われて気が付いたように帝人のお腹は空腹を訴えた。
 すっかり冷めてしまっていたけれど、臨也と向き合って食べるご飯は美味しかった。


***


 二組並んで敷かれた布団に、珍しくだらしない格好でごろごろとする帝人と、それを構う臨也。帝人は寝っ転がりながら、そわそわと携帯電話を確認した。日付を超えるまであと僅かだ。
「もうすぐですね、臨也さん」
「そうだね。ちゅーしながら迎えちゃう?」
「嫌ですよ。おめでとうって言えない」
 ちぇっと口を尖らせた臨也だったが、無理強いをするつもりはないのか、枕に顔を乗せたまま笑みを浮かべた。
「知らない地で過ごすのってワクワクするね。俺、旅行が好きになりそう」
「初めてじゃないのに」
「違うよ。君が連れて来てくれたってのが、ポイントなんじゃない」
「そうですか?」
「そうだよ」
 臨也が帝人の手を取って、目の前で指を絡める。まるで侵食されてしまいそうな緩慢な動きに、帝人の頬が染まる。
「俺って愛されてる?」
「・・・わからないんですか?」
「知ってるけど、ちゃんと聞きたいの」
 臨也のようにあまり露骨な表現が出来ない帝人は、つい、逃げるように視線を巡らせる。時計を見れば、あと一分もない。観念した帝人は、きゅっと、臨也の手を握り返す。
「・・・あ、愛してます、よ。・・・途中で放り出したら、多分、刺しますから、覚悟して下さいね」
 精一杯らしい帝人の言葉に、臨也は少し不満そうな顔をした。
「多分って何?絶対にしなよ。もっと俺に執着して。まあ、そんな機会はないけどね。ちなみに、俺を捨てたら拉致監禁、強姦の果てに心中だから。覚悟してね」
「・・・それは嫌ですね」
 そう言うものの、帝人はまるで甘い毒のような言葉に、うっとりと頬を染めた。
 携帯が時刻を告げるバイブレーションで、日付が超えたことを二人に伝える。帝人が「おめでとうございます」と、早口に言って、臨也に口付けた。
「・・・ん、」
 薄く開かれた唇を割って、臨也の舌に自分のそれを絡める。されるがままだった臨也は、帝人の身体を引き寄せ、密着して更に口付けを深くした。
「ふ、ぁっ」
 思う存分蹂躙した後、そっと唇を放すと、帝人のブルーブラックの瞳には熱が燈っていた。臨也は僅かに笑って身体も離す。
「ありがとう」
「あ・・・、」
 離れる臨也に、思わず帝人が浴衣の裾を掴んで引き止める。
「もう寝ちゃうんですか・・・?」
「だってお祝いして貰ったし、明日も早いんでしょ?」
「ん、・・・したく、ないですか?」
 興奮と羞恥で僅かに水を孕んだ大きな瞳に、思わず喉が鳴る。けれど、臨也は何とか頭を振って見せた。
「また君の計画がふいになっちゃうから駄目。まあ昨晩、我慢が利かなかった俺が言うのもなんだけど、君はもうちょっと先を見据えて行動すべきだよ」
「・・・元々、今夜はしたいって思っていた場合でもですか?」
「ちょっ、おい、」
 臨也の浴衣のあわせに手を置き、白い首筋に顔を寄せて囁かれる、興奮で掠れた声。
「一回だけでも駄目ですか?」
「・・・・。」
 はぁーっ、と臨也がため息を吐いて、帝人の肩がビクリと揺れる。
「あのね、俺が遠慮してる理由わかってる?一回なんかで俺が止まれると思ってるの?君は俺と数え切れないくらい寝たよね?それとも誰かと混合してる?そんな訳ないよね。そうだったら外になんかでらんないからね。ということはやっぱりわかっていて煽ってる?ああもう、わかったよ。君が誘ったんだよ?怒るのは見当違いだからね?まぁ、俺は無敵で素敵な彼氏さんだから?明日、車は運転してあげる」
「は・・・?運転って・・・、」
 まさか、運転できなくなる程するつもりなのだろうか。ぎょっと顔を見上げると、腰を強く抱き寄せられ、身体が密着する。臨也の熱が浴衣越しに伝わってきて、緊張と興奮で身が竦んだ。
「あっ、」
「観念するんだね」
 普段、中性的な臨也が男の匂いを強くする。組み敷かれ、見上げる臨也の顔は、まるで美しい肉食獣のようで、帝人は思わず喉を鳴らした。白くてシャープな頬に指を滑らせると、臨也に上から手を握られる。
「・・・いっぱい抱いてくださいね」
「勿論」と短く応えて、臨也は帝人の唇に齧り付いた。


***


「ん、」
 独特な湯の香りと湯気に鼻孔をくすぐられ、帝人はゆっくりと瞼を持ち上げた。目の前に湯船が広がり、一気に覚醒する。
「うわっ、」
 突然のことに驚いて、溺れてしまいそうな感覚に陥り、湯を掻こうとすると、回されていたらしい腕が、力強く帝人の腹を抱き直した。
「大丈夫だよ」
「ひゃっ」
 耳元で囁かれて、びくんと首を竦める。
「や、なに、」
 自分の身体を見下ろすと、臨也に後ろから抱きかかえられる形で湯船に浸かっていた。透明な湯が、自分たちの身体をクリアに見せていて、気恥ずかしくなる。
「何って、朝風呂。折角の温泉だしね」
「あさ、」
 今気が付いたとばかりに窓を眺めると、やわらかな光が差し込んでいた。
(そうだ、僕、)
 昨晩のことを思い出して、火照った身体が更に熱を帯びる。
「いやー、爽やかな朝だね。凄く満たされてるよ」
 パシャッとお湯を肩にかけられて、帝人が小さく声を上げる。昨日の熱がまだ残っていて、敏感になっている肌は刺激を受け、堪えられない声が漏れた。
「ああ、気をつけてね。今、朝食の準備して貰ってるから、あんまり声上げると聴こえちゃうよ?」
「っ!」
 思わずぱしゃんと音を立てて帝人は口元までお湯に身を沈めた。臨也がクスクスと笑って帝人の髪を撫ぜる。帝人は恨めしげに柘榴色の目を睨み上げた。
 赤は面白そうに弧を描いていた。
「ま、心配しないでよ。今日は俺がしっかりエスコートしてあげるから」
「・・・自分の誕生日にですか?」
「それが俺の至福なの。いいモノ貰っちゃったし、張り切らない訳ないでしょ」
 そう言って指差された耳には、シンプルなイヤーカフスが付けられていた。「あっ!」と帝人が驚いた声を上げた。臨也がにやりと人の悪い笑みを浮かべる。
「ごめんねぇ、我慢できなくて持ってきちゃった」
「・・・・。」
 それは、帝人が用意したプレゼントだ。本当はピアスがいいかと思ったが、彼がピアスホールを開けているところを見たことがなかったので、無難なイヤーカフスにしたのだ。ちょっとした支配欲、と、言っては行き過ぎかと思うが、臨也と自分が繋がっている証拠が欲しかったのだ。帝人にしては、随分勇気のいる買い物であった。しかし、誰かに相談したくなかったし、それにもし、他人が携わったと知ったら、臨也はきっと付けてくれない。正直自分のセンスはあまりいいとは思っていない。雑誌を見たり、臨也の私物を観察して、ようやく決めた一品だった。
 すぐに渡すのは恥ずかしいので、家に帰った時にわかるように臨也のベッドの上に置いてきたはずだったのだが。
「・・・本当に油断も隙もないですね」
 憎まれ口はただの照れ隠し。臨也もそれはお見通しなので、にこにこと嬉しそうに頷いている。
「俺って愛されてる?」
「また言わせる気ですか」
「足りないよ。もっと言って。俺も愛を囁いているんだから、君もそうするべき」
「どんな押し付け論ですか」
 もう、と、呆れながらも、付き合ってしまうからこそ、自分は今ここにいるのだろう。この男に捕らえられた時点で、振り回されるのはわかっていた。
(本当、どうしようもない)
 目の前の男も、自分も。

 帝人は観念して、彼の耳元で彼の望む言葉を贈った。




[終わり]




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ハッピーバースデー!盛り上がりどころもないんですがほっこりして頂ければ嬉しいですvおめでとう!永遠の21歳! 2011/05/05

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