いざや兄さんとみかどくん02




「みーーかどくんっ」

 とぼとぼと登校路を歩いていると、まるで語尾に音符でも付きそうな調子の声に呼び止められた。誰かだか振り返らなくてもわかって、帝人は悪戯を見つかった子供のようにびくりと身体を竦めた。
「おはよう」
 隣に肩を並べてきたのは、お隣の折原さん家の長男、臨也さん。先日の夜が嘘のようかに、まぶしい笑顔。恐らく向けられたものは誰もが頬を染めるに違いないそれに、けれど、帝人は顔を引き攣らせながら「おはようございます」と挨拶をした。
 あれからというものの。臨也はまるで帝人を監視するように一緒に登校していた。今日はそれが嫌で早めに出たのに、追いつかれてしまった。もしかして、ドーナッツの件といい、盗聴器が仕掛けられているのかもしれない。若干怒りを浮かべた表情の帝人に、臨也が笑顔でのたまった。
「逃げられると思った?」
「何のことですか?」
「今日、ちょっと早くに出たよね?」
「朝から苦手な教科なんで早めに着きたいだけです」
「成績優秀の帝人君が?」
「臨也さんがそれをいいますか?馬鹿にしてます?」
「褒めてるじゃないか。君みたいに頭いい子なら俺の隣にいてもいいと思うよ」
「・・・。」
 あまりの傲慢さに言葉も出ない。
(自分はこんな人にすっかり15年も騙されてたのか)
 自分だけじゃない。父も母も。まったく、情けなくて苛々してくる。その怒りをため息として小さく吐き出して、目を合わせないまま抗議する。
「こんなについて歩かなくても、僕はしゃべりませんよ」
「そうだろうね。口止め料があるもんね」
「・・・・。」
 その単語を出される度に、帝人は顔を顰める。それを面白そうに見る臨也の顔も、ここのところのお決まりのパターンだ。
「じゃあなんで」
「だって、屈辱に耐えてる帝人君の表情面白いから」
「この・・・っ!」
 思わず拳を握った帝人だったが、臨也がにやにやと面白そうに携帯電話を取り出したのを見て、ぐっと堪える。しかし、どうしようもなくて、八つ当たりをするように地面を蹴り上げた。
(面白いってなんだよ!ムカつく!どうせ変な顔だよ!そりゃ貴方から見れば大体面白いでしょうよ!)
 更に気に入らないのは、帝人が怒る様子を楽しそうに臨也が見ていることだ。それを横目で確認をして、ここで怒ってはますます臨也の思う壺だと、何とか怒りを抑える。
「ねぇ、帝人君、明日はちゃんと待っててね」
「は?」
「朝だよ朝。先に行っちゃやだよ?」
 こてんと首を傾げる様は、癪なことに絵になっていて。
(何が『やだよ』だよ!うっざ!)
 チッ、と顔を背ける帝人に、「返事は?」とわかりきったことを訊いて来た。
「ええ、お待ちしておりますよ!どうぞよろしくお願いします!」
 自棄気味に叫べば、臨也は「うんうん」と満足げに頷いて、更に帝人の苛立ちを掻きたてたのだった。



 教室に入ってきて、帝人はぐったりとした様子で席に着いた。まだ早い時間なので、誰もいない。臨也とは階が違うため彼はここに現れない。唯一安心できる空間に、ふう、と息を吐く。
 やることも特になくて携帯電話を開くと、舞流からメールが来ていた。なんだろうと開いてみると、『今日はグラタンにするべき』とのこと。臨也というイレギュラーに苛立ちを感じていた帝人は、いつも通りの彼女に癒されて、僅かに笑みを浮かべる。
(了解。ミネストローネも作るから手伝いよろしく、と)
 送信するとすぐにハートがたっぷりの返信メールが届いた。ふにゃと笑い、机にだらりと身体を預ける。

「うわ、凄いメールだね」
「っ!?」
 突然掛けられた声に、ガタリと大きな音を立てて身体を起こす。いつの間にか臨也が目の前の椅子を陣取っていた。自分ひとりだと思っていたので、帝人の心臓がばくばくと早鐘を打つ。
「い、臨也さん、どうして、」
「え?だって暇じゃん?遊びに来ちゃった」
 たはっと笑う臨也に、帝人が渋い顔をする。まだ心臓はドキドキしていたが、平静を装って席に座りなおす。
「帰ってください。他の学年は立ち入り禁止ですよ」
「君に用事があった。それなら許されるよね」
「・・・。」
 チッ、と鬱陶しそうにしながら帝人は携帯電話をしまった。その動作を柘榴色の瞳が追う。
「・・・ねぇ、それ、誰から?」
「は?」
「ハートばっかの気持ち悪いメール」
「気持ち悪いって・・・失礼なこと言わないで下さい」
 ぷいっとそっぽを向くと、臨也の視線が突き刺さるのを感じて、僅かに身震いをする。無言の圧力に、帝人はため息をついて「舞流ですよ」と答えた。目を瞬いた臨也は、やがて真剣な顔で帝人に尋ねた。
「・・・君、俺の妹狙ってるの?」
「は?狙う?すみません、意味がわかりかねるんですけど」
「だから。舞流が好きなの?」
「好きなのって・・・昔から一緒にいるんだから当たり前じゃないですか」
 勿論、九瑠璃だって好きだ。そう答えると、臨也は一瞬何か言いたげな表情をしたが、めんどくさそうな顔になって「あっそ」と言って話を終わらせた。まるで馬鹿に・・・いや、まるでではなくて、確実に馬鹿にされて帝人はいらっとしたが、不満は口からは出ず、手持ち無沙汰な様子で窓の外に目を向けた。
「・・・そろそろ教室に戻りませんか?」
「なんで。まだ時間あるじゃない」
「クラスメイトが来ます」
「なあに?俺と一緒にいるところを見られちゃまずいの?」
「生徒会長で優等生な臨也さんがいきなり教室にいたら何事かと思うでしょう?」
「いいじゃない。イザ兄って呼ぶ仲なんですって言ってあげれば」
 からかうような物言いに、帝人の頬が羞恥に染まる。
「昔のことです!」
「違うよ。この間呼ばれたもん」
「呼んでません!」
「呼んでた」
「だから呼んでないって・・・!」
 言ってるじゃないですか!と言い切る前に、がらりとドアが開かれた。立っていた教師が「おい、外まで声が聞こえているぞ」と笑って入ってきたが、臨也の姿を認めて目を丸くした。
「折原、どうした?何でここにいるんだ?」
「すみません。ちょっと竜ヶ峰君に用事があったので、お邪魔してます」
「そうか。そろそろ戻れよ」
「はい」
 ころっと顔を変えてのたまう臨也に、帝人は内心舌打ちをした。しかし、先生が来たのは救いだ。さっさと帰れと横目で睨み付ける。けれど、臨也の柘榴色の目と視線がかち合ってしまい、ぴくりと肩を揺らした。
「じゃあ、竜ヶ峰君、お昼に生徒会室でね」
「はぁっ?」
「お?まさか竜ヶ峰、なんかやらかしたのか?」
 教師が暢気に口を出してきた。しかし、帝人がそんなことをする訳がないと信頼してか、からかうような口調だった。けれど、今の帝人にはそんなことを察する余裕はなかった。必死で首を振って拒絶する。
「何もしてません!嫌です!行きたくないです!」
「やだなあ。説教するんじゃないよ。ね?書記さん?」
「は?なにそれ、」
 呆然とした声に、臨也が実に楽しそうに説明をする。
「うちの書記がねぇ、春休みから短期留学行っちゃってるんだ。まあ代理って形になるんだけど」
「そんなの!いつの間に決まったんですか!」
「代理だからね。俺が決めた」
 教師から見えないように笑う臨也の顔は、まるでチェシャ猫のようで、帝人は抵抗するように首を振る。
「そんな一任でなんて!再選すべきです!」
「あまり時間がないんだよね。書記が戻って来るまでの一ヶ月だけだから、俺の判断でいいと先生からも許可もらってるし」
「凄いじゃないか、竜ヶ峰。一年で生徒会なんていい経験だぞ?」
 感心したように頷く教師に、冗談じゃないと、帝人は僅かに首を振った。
「責任はある仕事だが、先輩たちが支えてくれるさ」
「そんな、」
「勿論ですよ。俺が精一杯、竜ヶ峰君を指導します」
 にっこりと、誰もが頬を染めそうな笑顔を浮かべて、教室内外がどよめいた。そこでようやく帝人は、クラスメイトたちが登校してきたことに気が付いて愕然とする。

「俺のお願い、きいてくれるよね?」

 来良の黒い悪魔。
 この時帝人は、心の中で臨也のことを、そう、命名したのであった。




***




 臨也の目論見通り、生徒会室に足を運ばされる羽目になった帝人は、ドアの前で躊躇していた。
 入学式の際に生徒会長である臨也は挨拶があったが、他の生徒会メンバーは知らない。一体、どんな人たちなのか。きっと臨也が掌握する生徒会だ。恐らく、似た人間が、いや、帝人命名、黒い悪魔が何人もいたら堪ったもんじゃない。
(どうしよう、逃げたいけど、逃げたらもっと大変なことになりそうだし。でも、)

「君、入らないのかい?」
「ひああっ!」
 開けようか開けまいか、迷っているドアを向こうから突然開かれ、情けない声を上げて飛び退いた。
 ばくばくと鳴る胸を押さえて、帝人はドアを開けた人物を見上げた。
「す、すいません、あの、僕、」
「竜ヶ峰帝人君だろ?臨也から話は聞いてるよ」
 どうぞ、と、招き入れてくれた先輩は、綺麗な顔立ちをしていて、黒縁のめがねをかけていた。少し長めに切り揃えられた黒髪が彼をより知性的に見せていた。警戒をしながら彼に促されるままに室内へと入る。
 そこにはもう一人の男子生徒がいた。短い髪で運動部のような印象を受ける。しかし、件の生徒会長の姿はなかった。
「い・・・会長は・・・?」
「アイツなら飯食いに行った。呼び出されておいて災難だったな」
「あはは・・・」
 曖昧に笑って誤魔化すと、彼は同情を含んだようなまなざしを向けてきた。
「お前、アイツの素を知っちまってるんだな」
「ええ、」
「あっは!一年は確実に潰れたね!まあ良かったじゃない、臨也が三年でさ。僕らなんか丸三年アイツにつき合わされる羽目になったからね」
 君の方がまだ明るい!と、どこか重い言葉を贈った男子生徒は「そういえばまだ自己紹介がまだだったね」と笑った。
「俺は岸谷新羅。会計やらされてるよ。セルティとの時間を削られて臨也爆発しろと心底思っている。よろしく」
「は、はあ。よろしくお願いします」
 セルティって誰?と思ったが、到底聞き返せるような雰囲気ではなく、帝人は素直にぺこりと頭を下げた。
「俺は門田京平。お前と同じ書記だ」
「よろしくお願いします」
「あともう一人、常備委員がいるんだけど、滅多に顔出さないんだよね」
「つーか、臨也が入れさせないようにしてるっつーかな」
「な、仲が悪いんですか?」
「悪いっつーもんじゃない。そうか、お前らが入学してからやり合ってないのか」
「ま、その方が平和っていうか」
「?」
 帝人は訝しげに首を傾げていると、ドアが開いた。臨也だ。どうやら上機嫌のようで、にこにこと入って来た。けれど、その髪はぐしゃぐしゃになっていて、衣服も乱れている。
(まさか、喧嘩?)
 あんなボロボロな臨也は初めて見た。思わず「大丈夫ですか?」と声を掛けたら、にっこりと、帝人に笑みを向けた。
「帝人君には大丈夫に見えるんだ?」
 どうやら、機嫌は表情と全く逆だったようだ。
「す、すみません、見えないです」
「お茶」
「へ?」
「お茶!」
 ドカッとソファに座り込んだ臨也に、戸惑う。お茶と言われても今しがたこの部屋に来た帝人にはわからない。困ったように新羅と門田を見上げると、門田は大きくため息を吐いて、「こっちだ」と手招きした。
「ポットと茶葉類はここにある。あの真っ黒いのが臨也用だ」
 棚に収められたそれを目を瞬いて確認する。そういえば、こうなってしまったきっかけの日も、臨也は真っ黒なコートを着ていた。
「お二人のはどれですか?」
「いや、別に、」
「一人分だけ入れるのでは勿体無いですから」
 そう言う帝人に、じゃあ、と門田が新羅と自分の分を渡した。帝人がてきぱきと準備をすると門田が感心したように言った。
「お前、手際がいいな」
「家事は多少慣れてますので」
  九瑠璃はあまり言わないが、舞流はあれが飲みたい、これが飲みたいと言って来るので、緑茶、紅茶、コーヒーは当然入れることが出来た。強くせがまれた所為 で英国式のミルクティーだって入れ方を知っているし、スコーンも焼かされた。確かに、男子高校生ではあまりいないかもしれない。
(そう思うと僕ってもしかして、尽くすタイプかも)
 そして、尽くされたいタイプは正に折原兄妹。九瑠璃を除く。舞流は可愛いから言うことをきいてあげたくなるが、『お兄さん』は正直勘弁して欲しい。しかも、既に臨也の評価は地の底だ。尽くすというよりは服従させられているに近いだろう。
 そう考えて、嫌な気分になった帝人だったが、「まだ?!」という臨也の声に急かされて、さっさとトレイに乗せて持っていく。それを「まあまあかな」なんて偉そうに飲んでいる男に、頭からお茶をかけてやりたい。
「じゃあ帝人君、君に早速の仕事だけど、」
 そう言って紙の束を、そのしなやかな指が向けられる。
「あれ、綴じといて」
「・・・いつまでですか?」
「今日の四時」
「は!?今昼休みなんですけど!」
「君のところはあと一時限でテスト終わりだろ?やっといて」
 それでも終わるか終わらないかギリギリと言ったところだ。しょっぱなからの暴君っぷりに苛立ちを隠せない。反抗的な目を向ければ、口笛を吹きながら携帯電話を取り出す。その時点で帝人はギブアップをするしかない。
「・・・わかりました」
「ん、よろしく」
 お茶を飲み干した臨也がごちそーさまと、来たとき同様、上機嫌で出て行った。黒い悪魔がいなくなって、けれど、目の前の書類に大きくため息を吐く。
「あー、まあなんだ。少しは手伝える」
 そう言ってそそくさと門田が書類を並べ始めた。最初はちょっと見た目が怖いと思ったが、面倒見のいい人のようだ。帝人は僅かに目を潤ませて「ありがとうございます」と礼を言った。
「新羅、お前も手伝え」
「ええー、めんどくさいなぁー」
 ぶつぶつといいながらも、結局は手伝ってくれる彼に、帝人はすみませんと頭を下げた。
  結局、昼休みいっぱいは黙々と、しかし、新羅は『セルティ』という人物の魅力について語り、主にその話に耳を傾けつつの作業となった。しかも凄いところ は、新羅は常にしゃべっているのに速度は黙々とやっている帝人とあまり変わらず、時々相槌を打ったり突込みを入れたりしている門田に至っては一番手際が良 かった。
「生徒会ってこういう仕事が多いんですか?」
「まあそうだねぇ。これも先生の使う資料なんだけど、使いっぱしりみたいに扱われてるね」
「臨也は自分ではやんないけどな」
「・・・・。」
 むすっとすると新羅が面白そうに笑った。
「君はよく顔に出るねえ。いいよ。わかりやすい人間は嫌いじゃない」
「す、すみません」
「構わない。だが、臨也の前では止めた方がいい。アイツを楽しませるばかりだ」
「・・・いつから臨也さんの本性知ってるんですか?」
「あいつとは高校一年で同じクラスだったからな。一ヶ月くらいで俺は巻き込まれた」
「僕も同じだよ。最初から胡散臭いとは思ってたんだけど、セルティが人を疑うのは良くないって言うから、放っておいたのにいつの間にかこの有様だよ」
「お二人は一ヶ月で・・・」
 呆然とした帝人に、門田が首を傾げる。
「竜ヶ峰はどうなんだ?」
「・・・・十五年です。隣の家の優しいお兄さんでした」
「うわぁ」
「それは、気の毒だな」
 可哀想なものを見る目というのはこういうのだろうか。出来れば知りたくなかったと、帝人は誤魔化し笑いをした。

 昼休みを終える頃には何とか半分まで終わった。後はテストが終わってから一人で片付けるしかない。
「すみません、ありがとうございました」
 ぺこりと帝人が頭を下げると、門田は「悪いな。後は頼む」と言って、まだまだセルティの話をしたがる新羅を引き摺って自分の教室に帰って行った。残された帝人は、ちらりとまだ終わっていない書類を見て、ため息を吐いた。
「仕方ないか」
 どれもこれも、あの黒い悪魔の所為だ。絶対、いつか逆転してやると、心に誓う帝人だった。




  テスト直前に戻って来た帝人は、少し離れた席にいた正臣が何か言いたげな視線を寄越していたのに気づいたが、まさか話す訳にも行かず、そのまま席につい て、テストに挑んだ。さっさと解いて見直しをして、余った時間で生徒会の仕事をしに行きたいと思ったが、入学早々、目立つような行動は取りたくない。仕方 なしに、何度も何度も見直しをして気を紛らわせた。やっとテストが回収され、ホームルームが終わって早々に席を立とうとしたところを、飛んできた正臣に引 き止められた。
「おい、帝人!」
「ごめん、ちょっと急いでるから」
「待てよ!お前、折原さんに近づくなって言っただろ!」
「あー、うん、」
「何かあったのか?」
 正臣の目は真剣だ。心配してくれているのがわかる。帝人は一瞬話してしまいたい衝動に駆られたが、弱みを握られているし、何より、正臣を巻き込みたくない。臨也と関わるとろくな事にならないのは、自分自身、十分に痛感している。
「・・・何もないよ。ごめんね、急いでるんだ」
「おい!」
 逃げるように教室を出て行く。正臣が追ってこなかったことにホッとする。まだ教室から出て来る生徒は殆んどおらず、人気のない廊下を走るギリギリで進んだ。後ろから足音が聞こえて、続いて最近随分良く聞く声が耳に届いた。
「よく助けを求めなかったね」
 本当に褒めているのか、いや、馬鹿にしているんだろうなと思いつつ、帝人は前を向いたまま「いえ、」と固い声で答えた。
「ま、そうだよね。握られてるもんねぇ、弱味」
「・・・・。」
 ふふ、と笑ってついてくる臨也を睨み付けた。
「テストはどうしたんですか」
「ん?さっきの時間で二教科終わらしてきたよ?」
「は?」
「俺ってば優秀だから、『生徒会の用事』って言えば特例も許してもらえるんだよね」 「・・・・最低」
「なんとでも」
 くすくす笑って共に生徒会室に入る。帝人は何か言われる前にお茶を入れてから作業に入ろうとしたが、臨也が非常に邪魔な所に陣取っていて、ひくりと頬を引きつらせる。
「臨也さん、」
「何してんの?さっさと終わらすよ」
「え?手伝ってくれるんですか?」
 驚いた顔をした帝人に、臨也の目が不機嫌そうに細められる。
「なに、手伝わなくていい訳」
「いえ!是非お願いします!」
 咄嗟に言ってしまってまた何か条件を突きつけられるのではないかと身を固くしたが、臨也は「やるよ」と短く答えて、さっさと作業を始めた。先程とは違い、互いに一言も言葉がなく、ただ紙が刷れる音と、ホッチキスの音だけが響く。
(・・・なんで手伝ってくれてるんだろう)
 臨也はこういった雑用をやらないと聞いていた。しかし、自分が遅くて間に合わなかったら怒られるのは生徒会長の臨也なのかもしれない。だから、手伝ってくれたのかも。
(そうじゃなきゃ、黒い悪魔が手伝うわけがない・・・)
 帝人は自分にそう言い聞かせた。もし、好意だと思って実際はそうでなかった時、きっとショックが大きい。そう考えて、自分がまだ臨也が好きなのかもしれないと、気が付いて、呆然とした。まだ、長く憧れてきた臨也を見ているのかもしれない。
(僕、馬鹿じゃないの。あんなことされたのに、)
「ねえ、帝人君」
「は、はいいっ!?」
 突然話しかけられて、ビクッと大げさに身体が揺れる。思わず手が止まると臨也に注意され、謝って手を動かす。
「あのさ、何、百面相してんの?」
「はい?」
「さっきから、深刻そうな顔したり、赤くなったり、ショック受けた顔したり、面白いけどさ」
「・・・そんな顔してましたか?」
「してなきゃ言わないでしょ」
「・・・そうですよね!」
 カチンと来て臨也のことで悩んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。ぷりぷり怒った帝人は、今度こそ作業に集中する。
「ねぇ、何考えてたの?」
 しつこく聞いてくる臨也に、帝人は舌打ちをしてから答えた。
「勿論、貴方のことですよ」
 自分を憂鬱にさせるのは、貴方しかいない。そう厭味を言ってやったつもりだったが、臨也からは何も言葉が返って来なかった。いつもならその口八丁で何かしら言ってきそうなものだが。不思議に思い、臨也をちらりと見ると、帝人はそのブルーブラックの目を何度も瞬いた。
 手はちゃんと動いている。表情だって普通だ。なのに、黒髪から覗く耳が赤い。臨也はその黒髪とは対照的に肌が白いから、よく目立つ。
「臨也さん、耳、赤いですよ?寒いんですか?」
 四月末とはいえ、まだ寒い日はある。しかし、この教室は暖房が付いているから寒さは感じないが。首を傾げる帝人に対し、臨也が「はぁ?」と苛立った声を上げる。不機嫌そうに目を細められたので、帝人は慌てて目を逸らし、自分の作業に集中した。
(もう、本当、めんどくさい人だなぁ。何が良くて何が悪いのかわかんないよぉ)
 結局、それから三十分ほど、帝人は居心地の悪い教室で臨也と二人きりで何とか資料を完成させることが出来たのだった。


「お疲れ。帰っていいよ」
  まるで用済みだといわんばかりの物言いにカチンと来たが、少し学習してきた帝人は、反論することなく「お先失礼します」とぺこりと頭を下げた。しかし、非 常に癪で不本意だが一言を言っていないことに気が付き、渋い顔をしながらも「手伝ってくれてありがとうございました」と礼を言った。
 途端に臨也が、眉を寄せる。
「何でお礼言うの?手伝わされた側なのに」
「だって、僕の仕事なのに臨也さん手伝ってくれたじゃないですか」
「あのねぇ、」
 臨也は何か言いたげだったが、めんどくさそうにして「もういいや」と投げ出した。どうしてそんなに人を苛立たせるのが上手いのか。帝人はむしろ不思議で仕方がなかった。
「なんなんですか。人がお礼言ってるのに、それすら素直に受け取れないんですか?」
「それでお礼言ってるつもり?もっと態度で示しなよ」
「これが僕の限界です」
 フン、と鼻を鳴らせば、少し目を細めた臨也が、ずいといきなり顔を寄せてきた。思わずビクリと肩を揺らす。
「な、なんですか」
「ねぇ、お礼はキスでもいいよ?」
「はぁ?何言って、」
「ほら、しなよ」
 ん、と唇を突き出す目の前の男を、信じられない思いで見つめる。
 なんで、そんなことを言うのか、わからない。また、ネタにする気なのか。しかし、そんなもののために、男とキスしてまでやることなのか。臨也の真意が見えない。
 しかも、一番わからないのは、自分の気持ちだ。
 嫌だと、感じていない。ただ、戸惑っているだけ。
(なんで、僕、相手は男なのに、)
途方に暮れて、まるで迷子のような声で、「臨也さん、」と呼ぶと、彼は途端に噴出した。
「は?」
 呆然とする帝人の目の前で、くつくつと堪えるように肩を震わせている。どうみても、笑っている。からかわれたのだと、気が付いた時には、「臨也さん!」と責めるような怒号を上げた。
「あはは、だって、帝人君たら、本気でっ」
「信じられません!ほんっと信じられない!最低です!」
 まだ笑っている臨也を尻目に、帝人はドスドスと乱暴に出口に向かう。こんなやつと二人きりなんて、もう御免だ。
「帝人君、」
「うるさい!イザ兄なんか大っ嫌いだ!」
「ごめん、許して。焼き鳥、買って帰るから」
 その言葉に、帝人の足がぴたりと止まる。
「勿論、味噌ダレだよ」
 臨也の言葉に、覚えてくれていたんだと、喜ぶ自分がいる。何年も食事を共にしていないのに、自分の好きなものを覚えてくれていた。なんで、それが嬉しいのか。帝人はわからなくて、その感情に目を瞑った。
「・・・鳥レバーと手羽も買ってください」
「おっけ。沢山見繕ってくから」
 ドアを閉める間際の「じゃあね」という臨也の声が、甘く聞こえたのは、きっと気のせいだ。そう決め付けて、帝人は紛らわすように廊下を走った。



「こんばんは」
 宣言通り、やきとりを買ってきてくれた臨也を、多少ツンケンしながら帝人は迎えた。本当は味噌ダレがとても嬉しかったのだが、手放しで喜ぶのがちょっと癪なのだ。
「お帰りなさい」
 そう言ってドアを開けてあげたのに、臨也は一向に動かなくて、眉を寄せた。
「早く入って下さいよ」
「・・・エプロンしてるんだね」
「そりゃ家事やる時はした方がいいでしょう」
 そう言って自分の身体を見下ろした。おかしくはないはずだ。至ってシンプルな青のエプロン。何がおかしいのだと首を傾げて視線を送れば、目を逸らされた。一体何が気に入らないというのだ。
「新妻みたいって思ってるんでしょ」
「っ!」
「舞流、」
 突然背後から掛かった言葉に、帝人が大きくため息を付く。
「男子高校生の新妻なんて初耳だよ」
「あら、私は可愛くていいと思うわ。ミカ兄ならお嫁さんに欲しいもの。きっと少なくともイザ兄とクル姉と私は妄想してるよ?」
「舞流!」
 強く妹の名前を呼んだ臨也を、目を瞬いて見ると、臨也は心底嫌そうな顔をして、「じゃあね」と立ち去ろうとしたので、慌ててその黒いコートの袖を引っ張って引き止めた。
「上がってくださいよ」
「いや、俺は、」
「ミカ兄がけんちん汁とサラダ作って待っててくれたのにね!でも心配には及ばないわ!私がその分食べるから!」
「それは食べすぎ」
 ぺチンとおでこを叩かれて、舞流は舌を出した。帝人からはわからないように舞流の赤い目がちらりと臨也を見た。それから、くすっと笑って帝人の腕に抱きついた。臨也から冷たい空気が流れてくる。
「な、なに怒ってるんですか。そんなに嫌でしたか?」
 臨也が怒ったことはなんとなくわかった帝人が勘違いをして「じゃあ無理にとは言いませんよ!」と言うと、臨也は首を振った。
「お邪魔するよ。俺の分まで舞流に食われるなんて癪だし」
「はぁ、ええ、どうぞ」
 なんとなく引っかかる物言いだったが、帝人は改めて臨也を招き入れたのだった。

 キッチンに戻ると、九瑠璃がけんちん汁を温めてくれていた。ありがとうと礼を言うと、九瑠璃は頭をふるふると振った。可愛らしい態度に思わず口元が緩む。
「手伝うよ」
「いえ、すぐ終わるんで、臨也さんは座っててください」
「そう?」
  そのままダイニングテーブルにスタスタと戻ってコートを脱いだ。ただの普通の動作のはずなのに、なんでもサマになるのだ。全く、普通にしていればかっこい いのに、なんであんなに破綻しているのか。二物、三物くらいは与えた神だったが、一番大切な一物を忘れてしまったようだ。
「シュークリームも買ってきたから」
「さっすが!イザ兄わかってるぅ!」
 臨也から箱を受け取って嬉しそうにする舞流。けれど、一言多かった。
「ミカ兄の前だからってかっこつけてんのね!いいわ!もっとやって!」
「・・・・没収な」
 そう言って箱を無理矢理奪って、舞流の身長では届かない場所まで掲げた。
「返してよイザ兄!」
「うわっ、」
 舞流がなんの躊躇いもなく股間を蹴り上げようとしてきて、慌てて飛び退く。一連のやり取りをキッチンから見ていた帝人もぎょっとする。
「お前なぁ!」
「か・え・し・て!」
「・・・・。」
「舞流、そんなことしちゃ駄目だよ」
 さすがに哀れに思った帝人がそう咎めたが、反省の色がない彼女に、臨也はため息を吐いて箱を返した。
「次はないぞ」
 そう言うが、全く聞いてないようだ。
「舞流、ご飯食べてからだからね」
「えー、平気だよぉ」
「止」
「うう、クル姉までぇー。わかったよぉ」
 名残惜しそうにしながらも、箱を置いて帝人たちの手伝いにキッチンまでやって来た。それを臨也が顔を顰めて見送る。
「お前、帝人君と九瑠璃の言葉はきくのかよ」
「そりゃ二人とも私の嫁だもの。嫁には優しくよね」
「せめて婿にしてくれないかな」
 冷静につっこみをしていると、臨也が面白くなさそうに帝人を見た。
「だめ。婿には行かせないよ」
「へ?はぁ。まあ」
 そもそも、帝人だって二人のことを妹のように思っている。もとよりそんな気はないし、舞流だって本気ではない。思わず苦笑する。
「なんだかんだで兄馬鹿ですね」
「違うに決まってるだろ」
 嫌そうな顔になった臨也に、舞流と九瑠璃も頷く。
「私、イザ兄が可哀想って初めて思ったわ。でもざまぁとも思ってる」
「うるさい」
「?なんですか?」
「こっちの話」
 ひらひらと手を振って気にするなと言う臨也に、首を傾げた。その隣で九瑠璃が「憫」と言ったが、帝人には意味がわからなかった。



「じゃ、ご馳走さま」
 夕食を済まして、しばらく寛いでいた臨也だったが、そう言ってコート羽織って玄関へと向かった。帝人は洗い物の手を止めて臨也を玄関まで見送る。
「こちらこそ、ありがとうございました。美味しかったです」
 美味しいものでお腹いっぱいになって、すっかり帝人は穏やかな気持ちになっていた。まったく、現金だと自分でも呆れる。それを誤魔化すように「もしかして例の情報屋ですか?」と訊ねた。
「そうだよ」
「・・・あまり危ないことはしないで下さいね」
「俺を誰だと思ってるの。上手くやるよ」
「・・・・。」
 咎めるように見上げると、臨也は肩を竦めてため息を吐いた。
「大丈夫。心配しないで」
「気をつけてくださいね」
 いってらっしゃい、と言うと、臨也が目を丸くして動きが固まった。
「臨也さん?」
 微動だにしない臨也に、首を傾げていると、臨也の顔が、急に近づいてきた。


「・・・・行って来ます」
 ぶっきらぼうに言って出て行った臨也に、帝人はなにも返すことが出来なかった。今、自分が何をされたのか、それだけでいっぱいだ。
(また、キス、された?)
 なんで、とか。またネタにするつもりなのか、とか。言いたいことはいっぱいあったが、やはり、嫌じゃないと感じている自分に、困惑する。
(僕、どうして、)

「うっわーー!イザ兄もミカ兄もやっるぅー!」
「恥」
「うわっ!く、九瑠璃、舞流!」
 ビクッと後ろを振り向くと、ドアからひょっこり姉妹が顔を出していた。帝人の顔が一気に茹で上がる。
「真っ赤になってるー。ミカ兄超かわいいー」
「う、うるさいなぁっ!」
 恥ずかしくてごしごしと顔を擦るが、そんなものでは戻らない。どうしようもなくて、ううー、と不明な呻きを上げる。
「わったしー、明日はハンバーグ食べたいなぁ?」
「同」
 やはり兄妹だ、帝人はひしひしと感じた。しかし、今の帝人には従う他ない。
「わ、わかったよ。そうするから」
「やったぁー!チーズ乗っけてね!オレンジ色のやつ!」
「う、うん」
 帝人が頷く前に、舞流は「ドラマ始まるー!」と言って人の気も知らずにさっさと引っ込んでしまった。とてつもない疲労感に、帝人は大きなため息を吐く。
「なんなんだよ・・・・」
 もう、と情けない声を上げていると、九瑠璃がくいくいと帝人の袖を引っ張った。帝人の身体がピクリと揺れる。
「く、くるり?」
 真っ直ぐに見上げられる赤い目は、臨也と同じ色だ。何もかも見透かされているようで、恥ずかしくて、どうしたらいいかわからず、情けなく眉尻が下がる。
 やがて、じっと見つめていた九瑠璃が、可愛らしい唇で、一言紡いだ。
「恋」
「へっ!?」
「クル姉?!始まっちゃったよー!」
 リビングからの叫び声に、ビクッとする。九瑠璃は「観」と言って妹と同じくリビングに戻って行った。
 残された帝人は、顔や耳どころではなく、首も手までもが真っ赤だ。

「うそだろ・・・?」

 呆然と呟かれた言葉に、残念ながら答えるものはいなかった。






[続く]




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臨也さんがただの良いお兄さんなわけがない!(…) 2011/04/03

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